こんにちは。
今回は、「帝銀事件」の犯人とされた平沢貞通さんを取り上げます。
帝銀事件は、戦後の混乱期に起きた、真相が闇に葬られた事件と言われています。
ここでは、平沢貞通さんの家族構成や、帝銀事件の理由と動機を調べてみました。
では、さっそく見て行きましょう。
【顔画像】平沢貞通(帝銀事件)とは
出典:NHK
1948年(昭和23年)1月26日、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店(当時)に男が現れ、
赤痢の予防薬と騙し、液体(毒薬)を飲ませ、銀行員と家族の12人を殺害し現金を奪った事件
そして、犯人として逮捕されたのが、
平沢 貞通(ひらさわ さだみち)氏でした。
出典:twitter
生年:1892年2月18日 -1987年 5月10日
享年:95歳
出身:北海道小樽市出身(東京府生まれ)
職業:画家
1948年、56歳の時に、帝銀事件の犯人として逮捕され、
1955年、裁判で死刑が確定します。
しかし、刑の執行も釈放もされないまま、95歳で獄死をされました。
出典:YouTube
歴代の法務大臣が死刑執行を見送った理由は、
平沢氏に冤罪の可能性があったからとも言われているそうです。
ではなぜ、平沢貞通氏が、帝銀事件の犯人として逮捕されたのでしょうか?
その動機と理由が気になります。
平沢貞通の帝銀事件の動機や理由(なぜ)は?
平沢貞通は取り調べの中で、
当初は”自白と否認”を繰り返しながらも、最終的には犯行を”否認”しています。
さらに”自白”とされる内容も、
「犯人である」と発してはいるものの、
なぜ帝銀事件を起こしたのか
その動機や理由を、詳細に語ってはいないようです。
帝銀事件は、銀行強盗事件なのですから、
お金目的の犯行と思うのが一般的です。
しかし、当時の平沢貞通は、日本を代表する画家であり、お金に困ってはいなかったと思われます。
さらに、自ら人を殺害するリスクを冒してまで「お金が必要」とは、犯行の動機として考えづらいのではないかと感じます。
一見、銀行強盗とは無縁と思われる背景であっても、平沢貞通が犯人とされた「決め手」が、
”松井”の名刺を持っていた
出典:Youtube
でした。
帝銀事件の犯人が、銀行で差し出した名刺が「松井」であり、
その名刺を持っていた平沢貞通は犯人である、となったのでした。
平沢貞通に、罪を着せようとする、
なんらかの力があったように感じますね。
平沢貞通の家族構成
さて、大量殺人の犯人とされた平沢貞通氏にも、
家族が居ました。
平沢貞通は1916年に結婚し、
妻との間に、二男三女をもうけています。
しかし、子供たちは、帝銀事件のあと平沢姓を捨てています。
妻:昭和37年(1962年)9月20日に協議離婚。昭和54年(1979年)12月11日、86歳で死去。
長女:昭和11年(1936年)10月16日、婚姻により除籍(事件前)
長男:昭和23年(1948年)12月18日、除籍。妻子を捨てて失踪
次女:昭和19年(1944年)11月25日、婚姻により除籍(事件前)
次男:昭和23年(1948年)11月15日、除籍
三女:昭和24年(1949年)2月4日、除籍
出典:ウィキペディア
父親が事件の犯人となり、
そしてそれが冤罪であるとしたら、
家族としては、やりきれなかったでしょうね。
平沢氏には妻の他にも、愛人が複数いたと言われています。
そのような複雑な家族環境の中で、
平沢氏の死後に再審請求を引き継ぐべき、肉親がいなくなったそうです。
そのため、「平沢貞通氏を救う会」の事務局長であった、森川哲郎氏の息子(武彦氏)が、
平沢氏と養子縁組を結び、再審請求を続けられました。
平沢貞通氏の人生も壮絶だと思いますが、
その周りの家族や、支援団体の方々の人生も、
大きく変わってしまったのですね。
平沢武彦氏の死因
出典:youtube
平沢貞通さんの死後、
再審請求を続けてられていた平沢武彦さんは、
2013年、54歳でお亡くなりになりました。
知人男性が武彦さんと連絡が取れないと交番に相談。
杉並署員と自宅を訪れ、うつぶせに倒れている男性を見つけた。
目立った外傷はなく、死後数週間経過しているとみられる。
出典:日経新聞
【顔画像】平沢貞通の家族構成は?帝銀事件の理由(なぜ)や動機も!まとめ
【顔画像】平沢貞通(帝銀事件)とは
平沢貞通の帝銀事件の動機や理由(なぜ)は?
平沢貞通の家族構成
を調べてみました。
最後まで、お読みいただきましてありがとうございました。