こんにちは。
今回は、寺尾聰(てらおあきら)さんを取り上げます。
俳優やミュージシャンとして幅広い活躍をされている寺尾さん。
音楽活動では『ルビーの指環』などのヒット曲を生み出し、多くのファンを魅了しています。
ここでは、寺尾聰さんの実家の家族構成(父親、母親、きょうだい)について調べてみたので、さっそく見ていきましょう。
寺尾聡の実家の家族構成
出典:https://note.com/
寺尾聰さんの実家の家族構成は、5人ですね。
・父親:宇野重吉さん
・母親:関志保子さん
・姉:ふたり
・長男:寺尾聰さん 1947年5月生まれ
寺尾聡さんは、劇団民藝の創設者である、宇野重吉さんの長男です。
学生時代は、父のフィールドを避け、音楽の道に進んだと言います。
- 1965年、18歳の時、カレッジ・フォーク・グループ「ザ・サベージ」に加入し、ベースを担当
- 1966年、19歳の時、「いつまでもいつまでも」でデビュー、曲はヒットするものの、グループを脱退
- 1968年、21歳の時、グループ・サウンズ「ザ・ホワイト・キックス」に参加するものの解散。石原裕次郎製作・主演「黒部の太陽」で俳優デビュー。
俳優として石原軍団のドラマに出演し人気者になった、寺尾聡さん。
その後、1981年に、『ルビーの指環』の大ヒットします。
俳優とミュージシャン、二つの道で成功を収めたのは、決してただの偶然ではないでしょう。
寺尾聡さんの努力と情熱に加えて、芸能一家としてのご家族の支えがあったからこそ、と感じられますね。
寺尾聡の父親の死因は肺がん
出典:https://boomsroom.blog.jp/
寺尾聰さんの父親は、名優・宇野重吉さんです。
宇野重吉さんは、肺がんで1988年に73歳でお亡くなりになりました。
父と寺尾聡さんのエピソードには、
寺尾聡さんは当初、父親の宇野重吉が創設した劇団民藝入りを希望したが、父・宇野重吉は「研修生でも世間は親の七光りと見るだろう」と息子を石原裕次郎に預けた
出典:https://www.iza.ne.jp/
寺尾聡さんの俳優の基礎は、
100%、宇野重吉から教わった。外に出て新しく教わったことはありません。
子供のうちから家で見聞きした。
俳優になった後、いろんな先輩から話を聞いたとき『これ知ってる』と思うことばかりだった。
出典:https://www.daily.co.jp
と語られています。
父は既に亡くなられたとはいえ、その存在は今も寺尾さんを見守り続けているのではないでしょうか。
宇野重吉さんの想いが、寺尾さんの人柄や前向きな姿勢に深く影響を与えているように感じられますね。
寺尾聡の母親の死因
寺尾聡さんの母親、関志保子さんは、宇野重吉さんと結婚する前は、女優や舞台ダンサーとして活躍されていました。
現在の情報はありませんが、寺尾聡さんが70代後半であることを考えると、既に亡くなられているのかもしれませんね。
母親は、宇野重吉さんが一目ぼれするほど、美しい方だったと言います。
出典:twitter
その一方で、
高校を2度留年し、高校三年を3回やったという寺尾聡さん。
その三度目になる日、母親が赤飯を炊いた。
「なんで」と彼が聞くと、寺尾聡の母親は、「おまえは、人がだれもまねのできないことをしたからお祝いなんだ」
出典:http://www.1book.co.jp/
なんとも、肝の据わった母親です。
大らかで愛情深い姿が浮かびますね。
寺尾聡さんが俳優として成功を収めたのも、こうした母の温かさがあったからではないでしょうか。
母の優しさと息子への揺るぎない愛情が、寺尾聡さんのポジティブに生きる姿勢に影響を与えているように感じますね。
寺尾聡に姉はいるが兄はいない?!
出典:google
寺尾聡さんは三人きょうだいの長男で、姉が二人いらっしゃるそうです。
とはいえ、二人の姉に関する詳しい情報は見つかりませんでした。
中学時代の寺尾さんは野球が好きで、学生時代は夢中になっていたそうですよ。
野球強豪校の法政二高を退学したのちは、和光学園に再入学し、そこで高校を卒業しましたが、少し遠回りしたようですね。
昼食には出前をとるという自由なエピソードもあり、ユニークな学生生活を送っていたようです。
きっと、姉たちもそんな弟を優しく見守り、時には支えていたのかもしれませんね。
今の寺尾聡さんの活躍も、ご家族の深い絆があってこそではないでしょうか。
寺尾聡の実家の家族構成!父親の死因は肺がんで母親は?姉はいるが兄はいない?! まとめ
- 寺尾聡の実家の家族構成
- 寺尾聡の父親の死因は肺がん
- 寺尾聡の母親の死因
- 寺尾聡に姉はいるが兄はいない?!
を調べてみました。
最後まで、お読みいただきましてありがとうございました。